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"主体的である"とは何か?

新年あけましておめでとうございます、オムそばです。

今年もよろしくお願い致します。

 

さて、新年一発目は、最近ずっと悩んでいる"主体的である"とは何かについて、考えたことを書いていこうと思います。

ポエムに近いです。本質はきっと違うと思っています。

 

◾︎"主体的"は、自己視点と他者視点で異なると認識すべし

まず、この"主体的である"という言葉。よく「お前は主体的に動けていない」と言われる人はわかると思いますが、自分の意志で考え、行動していても、そう言われることがありませんか?

私はこの"主体的である"という言葉は、"自己視点(主体的に考え、行動したか)""他者視点(主体的に考え、行動しているように見えるか)"の2種類があると考えています。

簡単な例をあげてみます。

 

見知らぬ人が大怪我をしています。その人はあなたを見て「助けて!」と叫びました。あなたは救急車を呼び、その人を助けました。後日、他の人から、「なぜあの時助けたのか?」と尋ねられたあなたは、こう言いました。

 

A「助けて、と言われたから助けました」

B「怪我をしていたので、助けなきゃと思い、助けました」

 

A、B、どちらの解答が主体的に見えるか、明白ですよね?

もちろんあなたは、事実としてAのような発言をしたのかもしれません。心の底では怪我をしている人を見たら助けるべきと思っているのかもしれません。ただ、それは"自己視点での主体性"であり、"他者視点での主体性"ではないのです。

なお、Aが本心ならば、それは自己視点でも主体的ではありませんのでご注意ください。

 

◾︎主体性の見えないNGワード

行動に対する理由を聞かれたときに、例え事実だったとしても、言ってはならないNGワードがあります。

それは、以下のようなワードです。

 

・「○○さんに言われたからやった」

・「xxと思われそうだからやった」

・「問題が発生したから動いた」

 

これらは全て、他者・他所のアクションに対するリアクションのように受け取れるワードです。

怒られると思ったから、とか、やれと言われたからやった、とか。

これらは、他者に責任を押し付けることが可能であるため、主体性があるようには見えません。

キッカケが他者のアクションだったとしても、主体的に動けているのであれば、あなたが行動を起こした理由は他にあるはずです(例えば、怪我をした人を見て助けるべきだと思った、とか)。

もし、あなたが理由を答える際、他者のアクションが理由だと最初に出るのならば、きっとそれはまだ主体的になれていない証拠だと思います。

 

◾︎"主体的である"とは

前章までの前提を考慮すると、"主体的である"とは、以下のようなことではないかと、私は考えます。

 

・取り組む事柄に対し、自らの意志で思考し、行動する

・責任感のある言動、行動を取る(他者に理由/原因を押しつかない)

 

助けて、と言われたから行動したのではなく、言われても言われなくても、その人に必要なものは何か、どうすれば助けられるか自ら考え、行動する。

もし失敗したとしても、「助ける能力のない自分に助けてと言った人が悪い」などと他責的に考えず、「自分の能力不足ややり方が悪くてその人を助けられなかった」と自責的に考えましょう。

 

なお、この記事を読んで、「主体的に見られるためにこれらのことに気をつけよう!」と考えないようにしてください。

既にその思考が、主体性のない思考になっていますので。